映画「ジョーカー」感想: ジョーカーという信頼できない語り手 (ネタバレあり)

見てきた。非常に、非常に良かった。一通りレビューを読んだが、基本的にはそれらに同意するとして、あまり言及されてないと思った点への自分の感想を書く。

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信頼できない語り手

本作は、物語類型としては「信頼できない語り手」タイプの作品である。アーサーは、精神的な問題を抱えて大量の薬を服薬しており、要所で幻覚を見ているのが示唆されている。

一連の悲劇が起きてアーサーが我を失ったあと、ガールフレンドの家に潜り込み、そして相手の反応から「一方的にアーサーがガールフレンドだと思っていただけの近所の他人」だったことが示される。これにより、他の描写の信頼性も失われる。

(自分はこのタイプの作品が好きだ。我孫子武丸の「殺戮にいたる病」と同じ、最後の一文で全部ひっくり返すカタルシスがある)

まだギリギリ正気だった頃、バーのショーに出演し、舞台でアガって笑いだしてしまう。あの舞台はどう考えても失敗したはずだが、明るい音楽とともにフェードアウトし、我々視聴者は混乱する。そして憧れのマレー・フランクリンのTV番組のお誘いが来る。このときはまだ薬で主観が歪んでおり、本人の主観ではそのように連続していたのだろうと思う。

その後、自己防衛とはいえ殺人を犯し、そして少なくとも生きる理由の一つだった母を支える理由を失い、どん底のアーサーは重ねるように市からの支援が打ち切られ、薬の処方がなくなったのだろう。彼はそこで薬をやめたのだと思う。

物語後半、ジョーカーになる直前の彼は、おそらくもう幻覚を見ていない。代わりに、「主観的に」みたいものを見ると決めた。自分の人生は悲劇ではなく、喜劇なのだと。

マレーの番組でのジョーカーは非常に冷静に狂っている。自分の狂気の使い所がわかっている。自分が馬鹿にされていることを自覚して、ピエロとして、自分に何が求められているか、完全に理解して、その上で、「お前たち(富裕層や社会的強者)は、自分のような社会的弱者を、黙って静かにしてろと抑圧していただけだろ?」と投げかける。(うろ覚え)

マレーの番組の問答は、おそらくこの作品の伝えたい核ではあるのだが、いかんせん「わかりやすすぎる」。わかりやすいがために、裏があると勘ぐってしまうのだが、逆に裏などない気もする。政治的な意図などないほうが、よりプリミティブな衝動としてミームとなるのだ、というだけなのかもしれない。

ラストシーンの解釈

病院のラストシーンが、実は本編開始前で、最初から狂人だったのではないか?というレビューを見かけたが、自分はそうは思えない。物語としての「嘘」の開示は、幻覚のガールフレンドのくだりで終わっており、そこに嘘を重ねると、嘘が過剰に感じる。

実は精神病院ででまかせで喋った全部作り話だ、という解釈もみたが、それはそれで「誰にでも訪れうる悲劇がジョーカーを生む」というメッセージ性を損ねてしまう気がしている。もちろん、ジョーカーの神秘性を担保する余地もあったのだろうが。

最後に: 好きなシーン

昔の同僚が二人訪ねてくるシーン、一人はアーサーに殺され、残された小人症の彼が「(手が届かないので)ドアをあけてくれ」と頼まなければいけなかったところ。何を考えているかわらない狂人に、頼み事をしないといけないという、あの恐怖の演出が最高によかった。