ブログを書き続けること

昔から気をつけてることなのだけど、ある程度、ブログ、とくに技術テーマ以外の記事を書く頻度はコントロールしよう、と思っていた。具体的には、1ヶ月の間に2, 3回ホッテントリなどに入ることは問題ないが、2, 3ヶ月連続で耳目を引き続けるのは、避けた方がいいのではないか。とくに落ち着いて暮らしたいなら。

中長期的にあまりに注目を引き過ぎると、勝手に記事間の文脈を悪意を持って補完されたり、固定のウォッチ対象にされてしまったりすることがある。粘着なアンチは聞く耳を持たないので無視するに限るが、人間何に反感を持つかわからないもので、自分がコントロール出来ない要素をたくさん抱えると、書くことそのものが億劫になっていく。日常生活にも影響が出る。少なくとも僕は、自分が書いたものが自分のコントロール下から外れていないか、怖くなってエゴサーチばっかりしてしまう。

「悪意を持ったコメント」に対抗する方法は難しく、たとえば僕がやることが多いアプローチとしては、過激な意見を述べるときは、想定される反論に対するエクスキューズを予想して事前にそれらを多めに準備し、そこを執拗に責める悪意がある人間の方が、異常に見えるような演出をする、といったことをするのだけど、想定反論の想定に失敗した時点で破綻するし、事前の下調べも、細かなレトリックの調整も、なかなかに難しい。あまり難しいと、そこまでやってして書きたいことだったか?と、自問してしまうし、その自問によって破棄した記事も、いくつかある。

書きたいことだけ書き続けられるか

基本的に、僕がこのブログで書くことに関しては、書きたいことだけしか書いていないのだけど、積極的にこれが書きたい、という動機以外に、何か漠然とした恐怖や、ストレスが溜まると、文章に逃げる傾向も自覚している。何かが上手くいってない時の、逃避としての文章。

今この文章を書いているのは、今述べたうちの「漠然とした恐怖」を元にしている。ここ数年の努力の甲斐あってか、一通りのストレス源を排除し、漠然といろんな物事、僕が向き合うと決めた物事については、上手くいった手応えはあるのだが、それがなんとなく怖い。

その不安とは、自分を今の自分足らしめた衝動が、失われているのではないか?排除したストレス源とは、本来真っ当に向き合うべきではなかったのか?初期衝動を失った自分は、果たしてそれらを享受しつづけることができるのか?というもので、「初期衝動を失って、飢えていない自分」が、自己規定から逸脱しそうになっている。

承認欲求と冷却期間

自分はなんだかんだで見栄っ張りだし、承認欲求も強いし、書いたものは見てもらいたい。その感情を否定するつもりはない。ただ、必要量以上を摂取して自家中毒になるのは避けたいし、コントロール出来ない反響を生み出したくはないとも思っている。さっき述べた、粘着なアンチとか。

継続してブログを書き続けたいなら、定期的に「冷却期間」は必要だと思っている。たしかに、継続的に書き続けると、時系列的な注目度があがって、いろんな読者にリーチし、承認欲求を満たしやすいものではあるのだが……悪い意見は好意的な感想の倍以上、心にクるので、扱う感情の総量を増やすと、心が折れやすくなる。よっぽどタフでない限り、いつか折れて、失踪する。そういう人を、沢山見てきたし、瞬間的な熱量が高い人ほど、彗星のように輝いて、そしていなくなる。

ここでいうブログとは、最近どこぞで流行ってる「ブロガーのブログ」とは違って、アクセス数を伸ばす為のものではなく、「個人の日記」としてのそれであり、僕がやってるのはそれである。そしてその目的は、アフィリエイトではなく、個人のブランディングであり、自己紹介の省略のためであり、人間関係における不満のアピールでもある。

とはいえ、覚悟をしないと得られないものはあるわけで、覚悟がない人間がその先に進むことはできない、という感覚も、なくはないんだけど。

強い意見、大きな主語

自分の意見を、とりわけ強い意見を公開したことに対して、否定的な意見がつくのは、しょうがないことだし、ある程度覚悟はしている。その覚悟がないなら、インターネットで何かを書くべきではないし、胸のうちに秘めておくべきだと思う。それが本当に必要になる時までは。

今現在、自分のことを基本的にはエンジニアが主たる要素だと定義しているが、父子家庭のモルモン教徒の二世、その宗教への反抗という、やや特殊な生まれと環境のせいで、社会に対する不満や、家庭や義務教育による抑圧など、自分の人格を歪めたと認識しているものに対する敵意が強く、それらについて過激な意見を持っていると自覚している。この意見は、表明するとそれなりの反響があるのはわかっているし、過去には何度か、そのコンテキストで必要なものに対しては表明している。

ただし、それらは基本的には自分自身の、社会人や、エンジニアとしてのブランディングとして役に立たない。エンジニアとしてある程度、名前が売れるようになってからは、意図的に抑制してきた。そういうのはコミュニケーション障害と受け取られたり、人材としてのリスクと思われる可能性が高いし、実際に一部の経営者から冗談交じりでそう宣言されたことはある。それらを踏まえ、自分自身のキャリア形成にとっては害となる可能性があるというのは認識している。

ただ、それらを完全に排除した自分は、自己規定から外れてしまう、というアイデンティティクライシスに直面し、その葛藤から、この自己言及的なテキストが生まれている。

テキストを雑に/シリアスに書くこと

最近、というかここ数年は、テキストをだいぶ雑方向に振ってて、hitode909文法を借りたりして、とにかくその生成コストを下げようとしていた。とにかく、数と機会こそが大事だ、と。

そのほうが確かにコミュニケーションは楽だし、こんなテキストを書き溜めるより、何かと円滑に行く。それが望まれてる。それが社会性だとわかっている。しかしそれは、なにか大事なものを失っているのではないか、という感覚も常にある。

で、もはや昔のようなテキストを書けないのではないか?という不満からこれを書き始めて、意外と昔どおりだったので、人間はそう簡単に変わらないのだな、と感じた次第ではあって、読みづらいのも、昔のままだろう。こっちのほうが素に近い、頭からスラスラと出てくる文章だ。

まあ、そういう内省的な文章を書く人間なので、こういうテキストを定期的に書いてガス抜きしていたりする。

一般的には、エンジニアとは、理詰めでモノを考える人間、という偏見があって(たしかにその傾向はあると思うのだけど)、こういう系統のテキストを書ける、というのは、自分の長所であると認識していて、それを活用してきた。そしてある程度成功した。成功したがゆえに、ここ最近はやることがなくなってしまったのだけどね。

30歳に向けて

28歳になり、若者とは呼ばれにくくなり、少なくとも「インターネットの若年層」ではなくなった今、インターネットで生きやすい自分の人格を再定義する必要に迫られており、若さだけで無責任に暴走するといったアプローチは取れなくなってきた。

とはいえ、大人になったら昔より許せるものが増えると思っていたが、そんなことはなく、怒りは怒りのままで、ただ自分の怒りは特殊なものではなく、よくあるものだよなーよしよしと笑って流すのがうまくなっただけと思う。

正直に言えば、大学生の頃は、自分がまともに社会人として働けるというイメージは全く無かったし、いまでも、自分は真っ当な社会人ではまったくないと思う。自分の能力を担保に、相手に妥協させてるという感覚はある。そして、それが有効なうちは、手持ちのコマとして使い続けるつもりではある。

自分がありのままを通したければ戦うしかないし、そこで戦うことを諦めるのも、1つの社会性の獲得なのだろう。あるいは、妥協しながらそれらを同時に行うことも。

妥協とか、撤退とか、駆け引きとか、信念とか、自分を通し続けるのも、難しいことなのだな。