1996年、「僕達のインターネット」を指咥えて見ていた小学生の話 あるいは「真性引きこもり」という現代に生きながらえる呪詛について

先に申し上げておくと、この文章には教訓も教養もなければ、オチもない。
このテーマを書く限りどうしても意識は散漫になるから、筆が出た順番に書き置く。

真性引き篭もり: 普通の女子大生は、Google+で「日本一」になんかなっちゃいない。
「ネットの片隅に咲くドクダミの花の匂い」 - シロクマの屑籠
ぼくは、「死んだ」と言われるインターネットの海で「古き良き」インターネットを見つけ、憧れ、羨ましく思った - opitziuのブログ
かつて、俺たちはインターネットだった - G.A.W.

真性引きこもりという「呪い」の再来

真性さん、僕はハンドルネームの方の半角さんと呼んでたんだが、まあそれはどうでもいい。
あの半角さんが、ブロゴスフィアに再び現れたことに心踊ったのは僕だけじゃなかったのは各所での反応でみてとれる。あのカリスマ性は隠そうにも隠せない。
半角さんの「呪詛」の放つ熱量にあてられて心が昂るのは、半角さんがブログを書いていた当時を知る人なら自然なことだろう。半角さんはどう捉えても「毒」として扱われるであろう存在なのだが、その衝動は人を酩酊させる何かがある。毒だと知りながらも恋焦がれてしまう何か。あのセンチメンタルな罵倒、あらゆる欺瞞を許せず糾弾する姿勢に、僕は痺れずにはいられない。

僕が半角さんを知ったのは、2007年、はてなのホットエントリーに入ってきた彼の記事でだった。受験中にも関わらず、僕は半角さんの過去ログのほとんどを読んだ。ただただ圧倒的な呪いがそこにあって、僕はそれに夢中になった。現状を是とせず、敵がどんなに強大であろうと狂ったように罵倒を撒き散らし、また自身の矛盾にさえ自覚的に身を焼く半角さんは、とにかくかっこよかったんだ。

僕はたぶん、半角さんになりたかったんだと思う。許せないものをそのまま許せないと言える、狂人のような在り様。衝動がそのまま言葉の暴力となり、人を憤慨させ、感動させずにはいられない、その姿。

「インターネットの彼ら」に憧れていた小学生

僕について軽く申し上げておくと、小学生低学年から中学校の頭にかけて(1996-2001)はインターネットに入り浸り、上の世代の「僕らのインターネット」に憧れつつ、しかし参加する権利が与えられなかった人間だ。当時のネットは今以上に、消防、厨房は氏ねという雰囲気が強かった。2ch以前からある確たるそれは僕を萎縮させ、年齢を隠してそういうコミュニティに参加する技術は持たなかったから、遠くから眺めてお兄さん、お姉さんたちが何か面白いことをやってる、という印象を強く抱いていた。テキストサイトの黎明期をみていたから、特にその思いは強いのだろう。
中学生になると親にエロサイトをみてたのがバレてパソコンを没収され、以降2007年に自分のPCを手に入れるまでインターネットは軽く覗く程度になったしまったが…。

僕がインターネットのコミュニティに「復帰」した2008年のTwitterは、アーリーアダプターの遊び場、ながれゆくノマドの一時的な逗留所で、今でも僕が知るかぎり一番魅力的なコミュニティだった。端的に自己紹介すると、秋葉原事件の日に、僕はリナカフェにいて、安否確認されていた人間だ。そのぐらいの立ち位置のユーザー、っていうのがどの程度通じるかわからないが、まあお察し下さいという感じ。

僕はTwitterによって、インターネットのコミュニティによって救済された人間だった。2chとニコニコの匿名文化では、当時大学のあらゆるサークルからフェードアウトした僕の孤独感を癒すことはなかった。2chに入り浸ってはいたが、匿名性の海に埋没していく自己が許せなかった。エゴが強い人間なのだと思う。
Twitterはコミュニケーションの救済装置だ。あらゆるものが数値化されていく。発言数、フォロワー数、発言へのFavorite数… コミュニケーションが数値化され、またその実が伴っていた。それに充足を覚えるメンタリティが歪んでいるかどうかはさておき、僕は自分を救ってくれた「新しいインターネット」を否定することができなかった。僕は半角さんのように新しいインターネットに絶望出来なかったんだ。

僕はTwitterのコミュニティの新参の一番下っ端で、昔、指を咥えてみていたインターネット古参たる彼らに酒をおごってもらったりする一方、ひたすらRSSリーダーに張り付いて最新の記事をあさり、また昔のアーカイブを漁り喪ったものを取り戻そうとした。テキストサイトの墓地を巡り、Flashのもう誰にも更新されない倉庫をめぐった。kanoseさんやotsuneさんのブックマークをなぞり、知識としてモヒカン論争などを知った。

2009年頃、「ミームの死骸」のはっしゅさんに煽られてブログを書き始めたのだが、僕は半角さんほど、世界にも、インターネットにも絶望出来なかったようで、粘着の相手するのに疲れて、無難な技術記事ばかり書くようになってしまった。技術記事は誰も不幸にしないので良い。
インターネットには二種類の人間がいて、無視され続けるか、炎上し続けるかだそうだが、僕はどうも後者の素養があるらしく、最初は人の耳目を集めるのもまんざらでもなかったので、僕の思う「かくあるべき」から外れた現状には声を挙げ問題提起(炎上ともいう)をしていたのだが、すぐに飽きてしまった。でもそこに至る気持ちってのは、たぶん半角さんのように自分の正義を信じて狂ってみたかったんだと思う。


インターネット人とモバイル人

今で言う非モテだとかスクールカーストの最底辺の人間達が、安息の場を得た場所がインターネットだった。そうじゃない人もいただろうが、声が大きいのはそういうやつらだった。だってやつらはインターネットを失うと、もう生きる場所がないんだから、必死にもなる。
それらをぶち壊して、お約束も何も無視して侵入してくるのが数の力で攻めてくるのが新世代のモバイルの人間たちだ。スマホによってi-modeezwebの垣根が取り払われ、彼らがインターネットという「僕らの遊び場」に解き放たられたのはつい最近の出来事だが、mixiなどのサービスに関しては先行して彼の進出ははじまっていた。彼らは自治厨というにも生ぬるい。彼らには彼らの厳然たるルールがあり、相容れない人間を容赦無く攻撃する。日本人らしい無言の圧力によって、人を殺す。そこでインターネット的なルールを主張すれば、キチガイのレッテルを貼られる。Twitterをはじめるまでの僕がそうだった。
そして似非原さんが言及していたように、相対的に立場が上がっていたインターネット人達はリア充の真似事をしていたわけで、彼らはサブカルメンヘラ女子を伴って新しいサービスへと逃げまわるのだ。

結局、アーリーアダプター達のノマドとしての振る舞いは、モバイルという異文化圏から逃れる形の逃避に過ぎない。mixiやニコ動は占拠されてしまったし、Twitterもどうかな、完璧に棲み分けてるようで、昔の面白かった人たちがリアルの人間関係のせいで黙ってしまったりしているのが現状だ。

あらゆるものが分解されてフラットになる時代

これは単に持論なのだけど、はてな村もまた、Twitterによって分解され、再構築されている。もはやサービス形態に依存する閉じたブロゴスフィアなど存在しない。全てはTwitterで貼られるテキストリンクとして、フラットな存在になってしまったんだ。はてなブックマークもそこにコミュニティへの帰属性はもはや存在しない。多様化しすぎたはてなはそこに語るべき「はてな」を失ってしまった。ツールはツールでしかないという建前が現実になった。

現代においては、ブロガーあるいは言論人って生き物は、切り売りされる自己、切り売りされるテキストってのに自覚的にならざるを得ない。
そこに文脈もなく、人格も存在しない。誰かの同意と承認と敵意の対象として消費されていく。パラグラフ単位でTumblrの海へ流れだしていく。

今あえてインターネットという総体を語ること

「俺たちのインターネット」は死んだけど、今あえてインターネットという幻想の総体を語り、挑み続けるのはすげーロックでかっこいいんだけど、報われないよね。ってことをid:murashitと酒のみながら話していたのは一年ほど前だったか。
僕なんかが言及したところで半角さんは気にもとめずに、留めたとしても数語の罵倒で済まされてしまうのだろうが、これは僕の一方的な尊敬の念である。僕は、半角さんに、どうしようもなく憧れていた。

まあそういうことを、僕は酒が入ったり考えこんだりしてしまうと、ちょっとばかし「意識が高く」なってしまうので、こんな感じでブログでガス抜きしている。それだけ。